[PR] この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。
せいらあ服を脱がさないで
著者:振子・ふりお
(壱)
先日、日本橋の丸善に行った。
編集者と打ち合わせをした帰りに、ぶらありと立ち寄っただけのことである。
無論、非常に心優しいやつばらであり、
愛眼商標の眼鏡(壱つ百円程度の安物)の奥で冷たく目を細め、
「先生、これじゃあ絶対にうれませんよ。まったくつまらん。もう一度書き直しください。」
などといふ言葉など、一切かける事が無い。
まったく、今のご時世に寛大な心を持った編集者様である。
(そのときの原稿は、一枚二円で引き取ってもらった。)
丸善の地下食堂で、高級食材を徒然なるまま次々に口にほおりこんでおると、
なんと驚いたことに、警棒を持った四拾台位の筋骨隆々の男弐人が前から歩いて来た。
どこかで見た顔だと思いつつも、通行の妨げになっては悪いと思い一目散に後ろに駆け下がると、
右脇からまあるゐ顔の男が歩ひてきて野太ひ声で話しかけて来た。
「先生、お久しぶりでございます」
それは、まるで狸に化かされた様な物であった。
五年前程浅草の半裸劇場-劇場名に惑わされてはいけなゐ、半裸では無く実際は着物を着ておる女がつまらぬ踊りを踊るのみである-
に入り浸っておる時に知り合った男であった。
秋山靖君といふその青年は、余の金蔓であった男である。
「やあ靖君、久しぶりだな。最後にあったのは、いつ頃かな」
「そうですねぇ、先生に十円貸したのが最後ですかね」
「うん、残念。だが、もう時効だな」
そんな他愛もない話をしながら、気安く肩をどやしつける靖君に何とか嫌な思ひをさせないようにと、
近くの居酒屋-比律賓人の女が経営しておる、壱拾弐畳程の小さな居酒屋なのだが-へ誘いをかけ、
四拾男達を上手くまひて店を出た。
久しぶりに会ったのだし、靖君の奢りであるといふ事も手伝って、
(もちろん本人には事後承諾させるといふ余の常套手段であるが。)
積もり積もった話しをしながら、次のようなことを話した。
「靖君、最近君の創作した詩だが、ありゃあちょっと助平じゃあないか?」
「ああ、あの詩のことですか? 先生、あれはあれでいいんですよ」
「うむ、君が良いのなら良いという訳じゃあない。
世間の人がどう思っているか、と言ふことを私は言っているのだ」
「いいや、先生。世間なんて竈馬みたいなものですよ」
「竈馬か、こりゃあ一本とられたな」
そんなことを小一時間も話しながら、余は靖君が御不浄に立つのを待ち店を出た。
その後、丁度靖君と目が合い三本ほど麦酒の瓶をあけて-もちろん余の頭頂部は割れた。-
別れたのだが果たして最終的に割り勘定にされたのが納得行かず、この評論を書くに至った。
余の問題とした詩とは、今流行の『せえらあ服を脱がさないで』という詩のことである。
『おにやん子倶楽部』という人気者集団の歌う歌であり、
『夜のひつとぱれえど』の壱位を参週間連続で独占している、あれだ。
なぜ、あの卑猥な詩が参週間も連続して、壱位を独占し得るのかその理由が全く余には理解できない。
この評論は、この歌の詩を少しづつ解読し、その歌が売れる秘密というものを探って行こうというものである。
(弐)
それでは、歌詞を少しずつ見てゆこう。
|歌詞|
せーえーらぁーふーくを(とぅっとぅっとぅーるるっとぅーる)
ぬーがーさなーいで(とぅっとぅっとぅーるるっとぅーる)
いまはだーめーよ
がまんなさーってー(とぅるっとぅっとぅっとぅっとぅーるとぅーる)
最初の一節は誰にでも分かる。
『せえらあ服を脱がすのは今は我慢してください』という意味合いであらう。
しかし、『今は』、あくまでも、『今は』なのである。
ということは、後で脱がすのは全く問題無いということなのであらうか?
さらに、この言葉を恥ずかしげも無く口に出している人間は、男なのか女なのかはたまた中間性であるのか。
(ちなみに、せえらあ服とは、亜米利加海兵隊の着る軍服の事である)
その疑問は、あたかも夏の朝の霧の如くにまとわりつき、余にひっそりとした倫敦を思わせるのであるが、
今そんな感傷的な事は言ってはおられぬ。
とりあえず次の節に進むことにしよう。
|歌詞|
せーえーらぁーふーくを(とぅっとぅっとぅーるるっとぅーる)
ぬーがーさなーいで(とぅっとぅっとぅーるるっとぅーる)
いまはだーめーよ
こんなところじゃー
この次の一節で、彼女(もしくは彼)の真意が段々と明らかになって行く。
分からないものは、レコード盤を良く聞き返して見たまえ。
『今はだめよ』の直ぐ後、『こんな所じゃ』と言っているではないか。
ということは、他の場所で今でなければ良いという許可を出していると考えるのが普通では無いか?
-中には、この場しのぎで言うものもいるのだが、この場合は、こう解釈するのが妥当であらう-
また、次の一節で更に積極的なものになってくる。
|歌詞|
おんなのーこーはーいーつーでも
みーみどーしーまー
おべんきょーおーしーてーるーのよ
あー
まーいーにちー
ここで初めて、女の子であると言ふことが判ってくる。
また、女の子というものがどう言ふものかということをも現出している。
ちなみに、みみどしまとは経験(つまり、生殖行動の事)が無い少女が持つている、
その行為についての知識のことである。
しかも、その後それについて彼女等が勉強しているらしいと言ふ事が伺える。
つまり、男が女性の露出された胸部もしくは臀部などをみて勉強(男の場合は興奮か?)
しているのと同じ事であろう。
ここまで来ると、余に決斗状を送り付けて来たとしか思われぬ。
次の一節に進んで行こふ。
|歌詞|
しゅうかんしみたーいな(とぅっとぅっとぅーるるっとぅーる)
えっちをしたいけど(とぅっとぅっとぅーるるっとぅーる)
そこから前にすーすめーないー
おくびょうすぎるわー
ともだちよりはやく(とぅっとぅっとぅーるるっとぅーる)
えっちをしたいけど(とぅっとぅっとぅーるるっとぅーる)
すべてをあげてしーまうーのはー
もったいなーいーからー
(もったいないから もったいないから もったいないかーらー)
あげないっ(はあとまあく)
なんと、彼女たちは週刊誌の様な性交渉を行いたいと宣言しているのである。
えっちとは、希臘の変態を表す言葉の頭文字の事であるが、
この場合は、性交渉と理解するのが文学的と言ふ物であらう。
且つ又彼女等の全てを(つまり、胸部、臀部、陰部など体の全てを)、
この歌詞の相手の男に提供するのは、
もったいないからあげないと更年期を過ぎた女顔負けのじらしの技術を実践しているところには、恐れ入った。
しかも、最後のはあとまあくで、少女らしい可愛らしい色気をかもし出している。
この歌を歌っているのは、拾六歳くらいの少女たち数人であるが、なんとませたことであろう。
意味がわかって歌っているのかと余は訝った。
余と一戦交えようと言ふのであらうか。
靖君が書いた詩なのではあるが、非常に卑猥な詩で余としては不評である。
だがしかし、それ以上に文学的な価値としては好評なのである。
(もちろん、おにやん子倶楽部は大好きだ、だから売れるのだろう)
今度、靖君と逢った時は、蕎麦でも奢ってもらわねばなるまい。
了
===============
この物語はフィクションです。